先週知り合いの方が亡くなった。
奥様が施設に入所し一人暮らしをされていたが
その方も入院されたとお聞きして随分になる。
一度お見舞いに伺ったが、転院された後で、その先には伺えなかった。

奥様お嬢様にご挨拶し、会場に入ると遺影が微笑んでおられる。
両親がご夫妻と親しくさせて頂いていたので、
私がこちらに帰って来てから後も、何度かお会いする機会があった。
とても寂しい気持ちになった。


会場では、葬儀での経典が配られた。
このような経典はお寺さんが用意するもののようで
浄土真宗の葬儀ではこのお寺さん
また、曹洞宗の法事でも記憶がある。

お経の訳や解説を読みながら懐かしい思いに駆られた。

小さいころから祖母や父に連れられてお寺にお参りしたし
熱心な父の影響で歎異抄に興味を持ち続けた
京女の短大に進むと、さらに勉強の機会を求めた。
浄土真宗の教えは私の原点でもある。

よいお葬式であった。


さて、うっかりしていたのだが
家に帰って気が付くと
清めの塩を用意して出ていなかった。

最近親戚のお葬式で聞いた話だが
浄土真宗では清めのお塩を会葬御礼につけないらしい。
そう
お葬式に参列し記帳したときに頂く会葬御礼についている小さなお塩の袋のこと。

たしかに亡くなったと同時に極楽浄土に生まれ変わる
浄土真宗のありがたい教義において、
死を穢れとして忌み
清める為のお塩は
必要ないのかもしれない。

しかし、真宗どころと言われるこの地域においても
神様を祭る家は多くあり
参列者の中には、我が家のように
家の宗旨を神道にしている者もいる。
お塩の小袋一つがとてもありがたいのである。

いやいや
本来これは私の注意が至らなかっただけの話である。
昔は、お通夜葬儀にお参りする前には
玄関近くに必ずお塩の入れ物を置いて出たものである。
家に家族が残っている場合は、帰ったと声を掛け
家の者はお塩を持って玄関に出た。
その準備を怠った私の問題であるのだ。

ただ、お葬式という
故人を偲んで様々な方が集まる場に関して
あえて慣例を変えることが
浄土真宗の考えに即してのことだとしても
本当にお釈迦様の意に叶ったことなのかなと思った訳である。

殺伐としたこんな時代だから
受け継いできたお釈迦様の教えは本当に大切な宝物。
社会の中で宗旨を超えて、教えが自然に生きるようにできたら良い
そういうことを思い返した一日でした。