やすこのツイート 7/2 7/3 7/19

 

ま、ちょっとこういう内容になっていくんですが

常盤さんこのツイートの文面で何かお感じになりますか

〈常盤〉

ただ戦争にまつわることって笑っちゃいけないみたいな雰囲気があ

るんですけど

こういう風に書いていただけると

すごく身近に感じられて、ちょっとクスッと笑ってしまいますよね

あのこうの 史代さんの夕凪の街とかもそうだったんですけど

くすっと笑える部分があるとすごく身近に感じてなんか本当に

近しい人のつぶやきのような気がしますね

〈華丸〉

とっても昔のことのようだけど本当に現代と置き換えれるし

今で思うと 今だとこういう状況かなというのが すごい想像がつ

きますよね

〈小林〉

まあ近しいっていうのは、おそらくそのお風呂とか、寝ようと思っ

ていたのに

こんなんでとか、日常の言葉が生きていると

〈常盤〉

うーん、私たちもね、地震のアラートが鳴ったりとか、すごいあり

ますものね

〈小林〉

あー、そういうところで

〈大吉〉

似たようなつぶやきがね、よく目にしますけど

今までで、そのお風呂を頂いてきますとか寝ようと思ったのに

そこを飛ばしてそこだけ僕は見てたので、よりこういう言葉が一つ

入ると

なんかより身近に、想像が膨らみますね。

 

〈小林〉

そうですね

で、逆に言うとその身近な生活の言葉の中に、こう警報とか空襲っ

ていう

(配給とかね 華丸さんの声)

戦争の事態というのが日常の中に隣り合わせにあるっていうことも

感じられるのかなという風に思うんですけどもね

そういったやすこさんのつぶやきです。

 

続いてですね

こちら当時13歳だったシュンちゃんのツイートを見ていきます。

シュンちゃんのツイートを作っているのは10代の若者たちなんです

ね。

戦時中の気持ちに迫るのに苦戦していました。

 

  シュンちゃんのツイート 5/9 

 

当時中学一年生だったシュンちゃんのツイート

作っているのは広島に住む10代の若者(画では7名映っている)達で

シュンちゃんが当時どんな気持ちだったのかをさぐる為、

できるだけ日記の出来事を再現しています

 

この日は当時家の床下に掘ったという防空壕作り

日記に書かれたとおり深さ50㎝の穴を掘ってみます

元の日記には

 328

 敵機必襲時局下我々は如何にしても

 防空がうの強化をしなければならぬ

 330

 本日遂に壁も仕上げたり

 父が帰り来りて驚くだろうと思ふと愉快な

 り、最後に床をセメントでぬり固めたり

 (3282930の日記が映し出される) 

父親がいない間に3日かけて防空壕を掘ったことが

書かれていました。

4人で掘り続けること3時間

防空壕を掘りながら75年前のシュンちゃんの気持ちを想像します。

感じたことを元に作ったツイートがこちら

シュン@shun

1945330)

体中いたる所に痛みを感じるが、

嬉しさで全部吹き飛んだ。

父もかえってきたら

びっくりするだろうな。

 しかし、このツイートに異議を唱える人がいました。

「私の態度とは違うわい」

 

元となる日記を75年前に書いた新井俊一郎さんご本人です。

当時のことを若い人たちに理解でしてほしいとツイート

づくりに協力してくれていました。

 

軍国少年の私だったら絶対に使わないような弱弱しい、女々しい言

葉が(ツイートに)出てくるわけよ

「我々は軍国少年」と威張っているわけ

威張っているわけだから張り切っているわけよ

強がっているわけよ

強がっている子供が使う言葉じゃないのが出てくるから

 

新井さんは当時痛みを感じるというような弱音を人前ではくことは

なかった

と指摘しました

小学校でありながらもう軍国少年式の教育が始まります

鉄砲を持って相手をやっつける

鉄砲を撃つなんてことを小学校の頃からもう始めます

教科書の中では、戦争は絶対日本は負けないというのを叩きこまれ

 

〈小林〉

戦時中は子供であっても弱音をはくことが許されず常に日本は強い

と教えられてきました

どうしてそんなことが可能なのか

メンバーの一人さきのさん(16)は、当時学校で暗記させられたと

いう軍人勅諭を書き写してみることにしました

〈さきの〉

これを覚えるって「なに意っとんねん?」みたいな気持ちになった

ですけど

(新井さんは)これも最終的には覚えたと言っていたのでまあすごい

なって

すごいなって、そうさせていた環境がすごいなって思いました

この刷り込み方とか、今の自分の概念ととかもちがうので

全然想像はしていたけど、想像していたよりももっとひどい

 

(しばらく大吉さん、華丸さん、常磐貴子さんで話し合う)

 

〈小林〉

当時の授業ではこんなことも行われていたようです

「この音は何だ」「木村」「はい、・・・(ききとれない)P-40

あります。」

「そうだ」「我々は憎い憎い敵の一機でも寄せつけてはいけない。

や叩き落とすのだ」

敵の爆撃の音を録音したレコードを聴いて聞き分けられるようにす

る授業ですね

さらにこれ、「少年倶楽部」という当時子供たちに人気のあった少

誌なんですけども

ここに兵隊さんに学ぼうというコーナーがありまして、ここですね

兵隊さんに学ぼうってことで、ここは兵隊さんに整理整頓を学ぼう

道具はちゃんと片付けることとか、まあ夜いつでも起きだせるよう

にしておくこととか

日常のあらゆることを兵隊に結びつけて教える

ま授業でも少年誌でもこういう状況にあると

こういう環境で育った俊一郎さんと若者たちの間にずれができるの

も納得できる

ということなんです

これ本当に如何にズレを埋めていくかっての、若者たち頑張ってい

ましたけどね

 

〈華丸〉

導かれてますからね、やっぱその当時は

そういう風に導かれて

 

〈小林〉

そうですね

 

〈華丸〉

ぼくらは平和の方が絶対良い、戦争はダメだっていう方から、いう

教育を

受けてきてますから、どうしてもそれは溝がもちろんありますよね

 

 

〈大吉〉

あとからみるとってところで

でもその渦中にいると

でも実際にね、防空壕を掘って、ちょっと気持ちを感じてみようと

素晴らしいとりくみだと

 

〈常盤〉

あんなちっちゃいんですね

 でもあれ相当時間かかりますね、あの大きさでも

 

〈華丸〉

それを一人で お父さんに内緒で

〈小林〉

お父さんが留守の間にっということでしたね

というふうな取り組みだったわけですけども

 

じゃあシュンちゃんややすこさんのつぶやきというのは

ネット上ではどのように受け止められているのか

その過去と今の自分との結びつきを発見するきっかけに

なったという方もいます

 

 

シュンちゃんのコメントに共感のコメントを付けた人

シュン君に親近感を感じ、シュン君のツイートを毎日読む中で

身近なある人のことを考えるようになったとの事

それは軍医として原爆投下後、広島に入っていた祖父の事

シュンちゃんのツイートをきっかけに戦時中、広島で起こったこと

もっと知りたいと思うようになったとのこと

身近な人とのつながりを意識するようになったという話

 

ツイートをきっかけに身近な人に思いをはせるようになったという

方、他にもいらっしゃいます。

こちら広島市の女性なんですけどれども、ひろしまタイムらライン

にならって祖母の遺品だった1945年の日記を、ご自身でこうやっ

ネット上にアップするようになったということで、まあ恐い存在

で原爆のことをほとんど話、まったく話きいて無かったそうなんで

すが、こうやって毎日日記に向き合う中で

あ、自分のおばあさん、こんな人だったんだ、そして自分の生きて

いる時代は戦争の時代と地続きだったんだということを強く感じる

ようになったと言うことです。

 広島の方からも続々メール頂いてまして

 常盤貴子さんのコメント

 

 

さあこれからシュンちゃんとやすこさんはですね、原爆の惨状を

目の当たりにすることになります。

ここからはですね、この後のつぶやきを少し先取りしてお伝えしま

す。

 

原爆投下から1時間

爆心地から9㎞離れた病院に疎開していたやすこさんの元には怪我

人が次々と運ばれてきます

(194586日 9:40AM)

衣類が・・・裂けて、焦げて、何かぶら下がってる。

(194586日 1:43PM)

看護婦さん、水をください・・・

やかんが空・・・ああ、お茶を汲んでこなきゃ・・・

 一方家族の安否を確認する為市内中心部に向かっていたシュンちゃ

んは生涯忘れられない光景を目にします。

(194586日 3:36PM)

姉妹だろうか?

大火傷でひどく大きく

膨れて、目と口のみが

かすかにへこんだ顔。

小さな手を握り合わせて、

よろよろと歩いている。

(194586日 3:37PM)

しっかりねっ、

しっかりねっ」と妹を

励ましているように

僕には思えた。

(194586日 3:38PM)

人の群れに溶けるように

静かに消えていった。

きっと

いきのびられないだろう。

それでもなんとか

生きて欲しい。

 やすこさんは翌7日、そて8日も被爆者の救護を続けます。

そして9日、こんな気持ちを綴っていました。

(194589)

お腹の赤ちゃんへ悪い

影響を与えただろうと

思うと、泣きたくなる。

このまま何かあって

無事に生まれて

こなかったらどうしょう。

 やすこさんはこの後どうなったのか、それを知る人を訪ねました。

 

北村純子さん、やすこさんのお腹の中にいた娘さんです。

原爆投下の4か月後、純子さんは生まれました。

母の泰子さんは戦後も日記を書き続けていましたが

あの原爆について記すことはほとんど無かったと言います。

(純子さん談)

86日のことを遠ざけていた泰子さん

あの日目にした光景を振り返れるようになったのは何十年もたって

からでした。

(純子さん日記を読む)

45年目の原爆の日で、改めて又あの日を想う。はからずも末期の水

を飲ませてあげたあの少年も俊ちゃんと同じ位の年だったろうに

嘸お母さんに会いたかっただろう。

(純子さん)
「この少年ってのが母の被爆原爆に対することの集約って

言うんですか

  

目の前でなくなった少年

被爆から45年の歳月を経て

泰子さんはやっと言葉に表すことができたのです。

 

ツイートを創るメンバーたちはこれから呟いていく一つ一つ言葉に

泰子さんが抱え続けた想いを込めていきたいと考えています。

「あとから、ほんと長い年月をかけながら 何ていったらいいんだ

ろうね

あ、傷を癒す していったのかな、って考えているので、

この先も泰子さんの人生にずーっと、この日ってのが付きまとって

いるんだっていうことは忘れないで考えていきたいなと思っていま

す。」

 

 

 

〈小林〉

この86日のことをまた日記に詳しく書けるようになったのが45

年もたっていたっていう

この歳月ってどういう風に思いになりますか?(常盤貴子さんに)

 

〈常盤〉

それだけ壮絶な思いをされたということだと思うんですよね。

そんな何年かで語れるような経験ではなかったということを物語っ

ているなあと思うんですよね

で、私あの去年かな、また久しぶりに原爆資料館に行ったんですけ

そこでやっぱり一番感じたのは、広島の人たちが、同じ思いを世界

のどんな場所でもして欲しくないと思っているっていう、その気持

ちがすごく感じられて

もう涙が出て来てしまったんですね。

だからその戦争を体験された方、あの原爆をあの被爆された方々が

見てきたもの、体験してきたものっていうものは、すぐには語れな

いものかもしれないけど私たちはそれを勉強する術はあるので、

それを少しづつ勉強していきたいなってすごくその時に思ったん

ですよね。

〈小林〉

そうですね。

それはまあ86日当日だけではなくて、泰子さんが45年かかった

ように

そのあともそして今も続いている、かかえていらっしゃることなん

ですね。

〈常盤〉

この短い文章の中にそういうことを学んでいくと、また読み取るこ

とができるっていうのはすごく大事なことなのかなって

〈小林〉

でこのやすこさんこと今井泰子さん(当時26)

日記はね明日以降も続いていきます

やはりそのご実家が病院だったということで、被爆で被害を受けら

れた方の救護にあたり続けるということですね。

そして13歳シュンちゃんのモデルになった新井俊一郎さん(当時13)

87日以降ですね、仲の良かった友達の死を次々に知っていくわけ

ですね。

で自分だけ生き残ったことに、こう負い目を感じていらっしゃった

という新井さん

自分の体験を語れるようになるまで、やっぱり50歳過ぎてからだっ

たということです。

 

そしてつぶやきにも次々コメントが寄せられています。

  紹介 沢山掲示されていてその中から5つを紹介

 

いろんなコメントを寄せて下さっております。

でこのツイート、シュンちゃんもやすこさんも明日以降もツイート

続いていきます

よろしければ是非ツイート見てそしてやすこさん、シュンちゃんに

会いに行って頂ければなと思います。

〈大吉〉

ほんとにね、読むだけで苦しい気持ちもありますけど、ほんとにす

ごい思いでこの日記を托されてくれていると思うので、シュンちゃ

んもやすこさんも一郎さんもしっかり受け止めていきたいですね。

 

〈近江〉

あのたくさんメールFAXでもご意見ご感想頂いていますのでまた

後程ご紹介させていただきます

 

はい、ということでここまで小林さんありがとうございました。