随分昔のことですが、キリスト教の聖職者と浄土真宗の聖職者が

テレビで討論していたのを見たことがあります。

その時私は
キリスト教も浄土真宗も同じように救い主を崇めるのか、と

思いました。


 

浄土真宗の祈る対象は阿弥陀如来。

その仏の、衆生への想いは慈悲

その想いをかつて学んだ先生は母親の愛に例えられました

母親の愛情は尊い想いだが、それでも完全ではない

阿弥陀如来の慈悲の心は、その母親の心を、思いを、

完璧にしたものだとわかり易く例えられた

人間は罪を犯したと感じたり

自らの心の弱さに押しつぶされそうになった時

絶対なる者に救いを求め、

その救いの言葉や愛や慈悲に救われ感謝する

ところが苦しみが喉元過ぎれば、

また横着で我儘な自分というものが湧き出てきて愕然としたり

同じ失敗を繰り返して、

自分というものに再び向き合わざるを得なくなる

 

仏教である浄土真宗の教えは

ただ救い主を崇め信じるということではない

この信じるという自らの思いさえ、自分の力ではなく

私のはからいを超えて、仏さまのはからいで

衆生を救いたいと願われる阿弥陀如来の願力によって

自然に念仏が出てくる、唱えられてくる

そうして自分のあらゆる行動に仏の願力(念仏)がはたらく

私の智慧ではない仏智 

凡夫の迷心ではない仏心

そのまかせきった心境、すなわち無我(私がない)の境地は

阿弥陀如来の願力がそうさせるのである、と

阿弥陀如来の願いを感得したとき、

自分の力で、思いで、信心しているという、

自分が自分がという我執から離れ、

差し伸べて下さる如来の本願の力によって

信じさせていただいていると、理解する

こういう心境に導いてくれるのが

浄土真宗の信心、他力本願なのだと理解しています。



松原祐善著「無量寿経に聞く」(昭和43年 教育新潮社)

p152

思案の頂上とは人間の智慧分別の究極の限界をいうものと思われ

ます。人間の自力の智慧の限りを尽くして、その頭の上げようの

なくなった智慧の究極に、人間自力の無効を信知して、初めて如

来の五劫思惟の不可思議の本願を仰ぎうるのであります。かくて、

人間中心のはからい・分別を超えて仏智の不思議を仰ぎ、如来の

五劫思惟の御思案の道理に同心せよと蓮如上人は仰せられるので

あります。


小池秀章著『高校生からの仏教入門 釈尊から親鸞聖人へ』(20095月 本願寺出版社)

P175

〈私の願いと仏の願い〉

 「私の願い」は自己中心的で、自己の欲望を満たす方向のも

のがほとんどです。それに対して、「仏の願い」は、自己中心の

心を離れた「智慧と慈悲」の世界から出てきた願いであり、万人

の救済を願う真実の願いです。これを本願といいます。

 そして、ただ願っているだけではなく、私たちを救うはたらき

としてはたらき続けているので「(ほん)(がん)(りき)」と言います。

P159

縁起・自他一如

 釈尊は「真実」をさとられたわけですが、その内容を一言で

えば、「縁起」であると言えます。「縁起」とは、「すべてのも

のは、さまざまな(いん)(ねん)()って、仮にそのような状態として起こ

っている」ということです。また、「すべてのものは、持ちつ持

たれつの関係にあり、その関係の中で、はじめて存在している」

とも言えます。つまり、「私は、私以外のすべてのものによって

私である」「さまざまな関係の中で、はじめて私が私として存在

する」ということです。

 そして、それは「私()と私以外のもの()は切り離せない」と

うことであり、これを「()()(いち)(にょ)」といいます。

P159

智慧と慈悲

 本当の意味で「縁起」がわかった時、つまり、永遠に変わらな

い「私」という実態は無いということがわかり、「私」への(とら)

(我執)が無くなった時、自己中心の心を離れることができます。

そして、ありのままに、ものを見ることができます。この「あり

のままにものを見る力」を「()()」といいます。「智慧」によっ

て「縁起」の世界が見えてきます。それは「自他一如」の世界で

すから、自分さえよければいいという心は無く、他と共感する心

が生まれます。この、他の苦しみ悲しみを共感するところから出

てくる、憐れみ(いつく)しみの心を「慈悲」と言います。「智慧」は

必ず「慈悲」としてはたらき、「慈悲」は必ず「智慧」を伴いま

す。

 要するに、釈尊のさとりとは、「真実」「縁起」「自他一如」

「智慧と慈悲」といった言葉で表されるような世界なのです。そ

してそれを体得した時、煩悩(自己中心の心)を滅することができ

るのです。

P160

煩悩具足の凡夫

 仏教は、仏の教えであると同時に仏に成る教えですから、煩悩

(自己中心の心)を滅してさとる(真実を体得する)ことを目指すの

ですが、煩悩を滅することができない人は、どうすればいいので

しょうか。それが、親鸞聖人が問題とされたところなのです。

 ちなみに親鸞聖人は、自らのことを、「煩悩()(そく)(ぼん)()(煩

悩が十分(そな)わっている愚かな人間)と受け止めておられます。そ

して、その凡夫のための宗教が、浄土真宗なのです。

P162

生き方の転換

 煩悩を滅してさとりに至る(真実を体得する)のが仏教の目的で

すが、親鸞聖人は、真実を求めれば求めるほど、真実から遠ざか

る煩悩だらけの愚かな自分が、見えてきました。煩悩を滅するこ

とができない自分は救われないのかと悩み、壁にぶち当たった時、

法然聖人から教えを受け、「真実を体得し、真実に生きる生き方」

から「真実を仰ぎ、真実に生かされる生き方」へ転換されたの

です。


p12

「仏」は、「キリスト教のような創造主ではありませんから、仏

人間を創ったのではありません。キリスト教では、神が人間を

創ったわけですから、神と人間との関係は異質的なものであり、

人間は決して神には成れません。ところが、仏と人間の関係は異

質的なものではなく、人間もさとれば仏です。私たちは仏に成る

ことができるのです。

僧侶たちは一般の民百姓に法話を話して聞かせ

人々は自らの生活の中でできわく様々な問題と向き合いながら

仏教の心、念仏の心を体得していく

まさに生活の場こそが修行の場であるのです。

その人々のありさまが妙好人として記録に残っています。

妙好人 - Wikipediaから引用

妙好人(みょうこうにん)とは、浄土教の篤信者、特に浄土真宗の在

俗の篤信者を指す語である。

妙好人は、もっぱらその言行をもって周囲から尊称された人物と

も言える。江戸~明治期において市井に生きる人々の言葉が後世

に残る事は稀であり、(後略)

 



人々を教化した仏僧たちの熱意にも人々の謙虚さにも頭がさがりま

すが、その僧たちの働きの源には、無量寿経、そして親鸞の教えが

裏付けとしてあります。

 

しかし私は、もともと日本人にはこのような宗教体験に至る下地が

あったのではないかとも考えます。

ただ、その捉え方が神道の場合は仏教とは裏表で、真逆な捉え方の

ような気がしているのです。