NHKの連続テレビ小説「ごちそうさん」が終了した。
戦前、戦中を描いている割に、とても現代的な人間関係だと感じた。
唯一お義姉さんのみが、その時代っぽさを感じさせたが。
 しかし、そういう設定ではあっても、むしろそういう設定だからこそかもしれないが、
素直で明るく、屈託のない活男の志願と戦死には切なくやれきれないものがあった。
 現代人の感覚で、あの時代の象徴的な出来事と人々に出会うことができ、
なおかつ、美味しいものを食べる姿に元気をもらえた半年間でした。
 キャスト、スタッフの方々、本当にお疲れ様でした。

「明日、ママがいない」を視聴した。
ニュースでいろいろ騒がれているので 第1話をYoutubeの動画サイトで視聴してみた。

 なぜこんなに大騒ぎになるのだろう。

 確かに最初大変誇張されたドラマだとは感じた。しかし、多かれ少なかれドラマとは脚色されたものだ。

 そして見ていくうちに、しっかりした筋書きがあるのがわかる。

 とてもおませで強くしたたかな子供たちは、現実世界で大人たちの都合に振り回され傷つく子供たちを代弁していく。幼児虐待であったり、大人の都合での子育て放棄であったり。

 もちろん子供を捨てる大人には大人の切羽詰った理由はある。芦田愛ちゃん演じるポストのせりふには そのことへの理解もある。子供の為にただ親が我慢をすれば良いとは思わないが、それでも子供には言い分があろう。つらさがあろう。それが代弁されていく。

 いわくありげな佐々木(三上博史)も、その表現は乱暴だが言い分には理解できるものがある。

 まだ1回目を視聴しただけだが、今の社会に潜む様々な問題に子供の目線から切り込んだ作品だという感想を持った。この作品には愛情が感じられると思った。それが必ず全作品を見終わった時に、視聴者の心を変化させる作品に仕上がることを信じるものである。

 赤ちゃんポストの創設者や児童養護施設の方が、預けられた子供たちの心を思いやることは理解できる。子供たちがとてもデリケートであることも想像できる。

 しかし、大人たちはこの作品の良いところを子供達と一緒に語り合うことはできないだろうか。想像力をたくましくして思いやりを育てることはできないだろうか。

 社会が殺伐としている。

 『訴訟社会』や『モンスターペアレント』などという言葉からは久しいが、少数クレームであってもCMを中止にしたなど最近のインターネット社会での企業の対応は異常とさえ感じられる。

 もっと、もっと人が人を思いやる社会でなくては、と思います。

 でもそれはオブラードにくるんだような優しい表現、優しい物腰だけでできるものではありません。むしろその奥の本来の心が排他的だったり、他人に厳しかったりでは直ぐにボロが出ます。その、人の心の奥底に眠る優しい心を呼び起こすドラマを大事にして、そのドラマが訴える人間性を尊び、まだ未成熟な子供たちには噛み砕いて教えるのも大人の努めではないでしょうか?勿論、見せない、という方法もありますが、みんなでボイコットして放送中止なんてことは、絶対間違っていると思います。

 安倍首相が靖国参拝をされた。
 よくぞ決心されたと思った。
 長年、諸外国の反応に配慮して多くの首相が参拝を避けてきた。
 私はその事こそが問題であると感じていました。
 日本のために尊い命を犠牲にされた英霊に対してこの国の長が参拝をすることに遠慮しなければならないとは、なんて悲しいことでしょうか。
 それでも、終戦までの日本の行為が諸外国の人たちを踏みにじり、その怒りのはけ口として首相の靖国参拝への批判に繋がるのなら、それが見当違いな言動だとしても甘んじて受け止め、忍ばねばならないのかと想い続けてきた。事なかれ主義者である私はそう思ってきました。
 しかし、それは本来の自分の気持ちを偽り押し殺しての思いでもあります。
 

 私は特別に愛国心の塊ではない。
 また、信仰というものが帰依するという意味であれば、決して信心深い者でもない。
 ただ雑学程度に宗教に興味がある者である。
 そして我が家は神道の神様を祭っている。
 祖母は大変わがままで、また激しく厳しい人で、母は随分苦労した。
 今、祖母も母も神様となって子孫を守ってくれている。

 こう表現すると、唯一一神教の神を信仰する人には理解をすることができないかもしれない。
 しかし、若い頃から色々な宗教に興味を持った私は、稚拙ではあるが私なりの解釈をしている。
 一神教の神が創造物という存在、例えば宇宙という、すべてを生み出す存在そのものであるとすれば、日本人が神と崇める存在は、その宇宙の中の、大自然の息吹、力、神秘、それらを感じさせる存在、すなわち、大宇宙と人間との接点となるものについて、これを神聖とし、神と崇めて来たのだと思う。そして人間もまた死して自然に帰った後、残った者を守ってくれる存在として奉られるのである。もちろん生者は死者を悼み弔い、昇華して魂の穏やかで安らぎに満ちた存在になることを願い、そして、願い続けることによって自らもまた様々な呪縛から解き放たれるのだと思う。

 日本人はその根底にこうした日本独自の自然と一体となった宗教感を持ちながら、他の宗教も取り入れてきた。寛容に取り入れ、日本においては日本独特の宗教の変貌もみられた。

 例えば、無学文盲の人たちに説かれた親鸞の教えは、まるで高い修行を積まなければ得とくでない空の世界観のような心境を、日々の苦しい生活を送る人たちの中に生み出す。この教えを導き出した親鸞も、この境地を会得する世俗の人々も、真面目な探究心とともに、その底には日本独自の宗教観が流れていたからだと、私は思う。

 
 日本というこの土地に生まれ、そこから生まれた死生観や慣習は日本独自のものである。
 神社に祭られている御霊について、あるいはその参拝について、政治的な理由付けで外国から批判されることは本当に心外であった。それでもお互いが仲良くあるためならと我慢し続けてきた。
 しかしそれは本当にお互いを理解することになるのか。
 もっと日本人の心の内を表現するべきではないのか。
 そうした思いが少し晴れた気がする。
 私の魂の叫びである。

↑このページのトップヘ